戦前の高等教育制度は、 旧制中学校(現在の高等学校)を卒業後、 旧制専門学校に進学するコースと、 旧制高等学校あるいは大学予科から旧制大学に進学するコース、 の2系統にわかれていました。 しかし、終戦直後に来日したアメリカ教育施設団は、 6・3・3・4制(いわゆる六三制)の単線型教育制度の必要性を、 占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーに勧告し、 この影響下で成立した学校教育法が昭和22年3月31日に交付されました。 これにより戦前からの教育制度が廃止され、 六三制の単線型学校体系が成立しました。 旧制大学、旧制高等学校、旧制専門学校は新制大学に移行し、 一部の専門学校は昭和25年4月1日から2年制の短期大学に移行しました。
しかし六四制には、成立直後から、 わが国の実情に即しない面がある、 との声が根強く存在していました。 こうした声を受けて、昭和26年11月、 吉田内閣の私的諮問機関だった政令改正諮問委員会は、 専門職業教育に重点をおく、 高等学校と大学の前半を合わせた、5年ないし6年制の、 専修大学(後に専門大学あるいは専科大学とも呼ばれる) を創設する必要性を答申したのです。 翌昭和27年から31年には日本経営者団体連盟(日経連)が、 この専修大学構想をさらに発展させた内容の、 5年制の専門大学の創設を強く要請、 昭和29年から32年には中央教育審議会(中教審) も同様の答申をおこないました。
たび重なる日経連や中教審の強い要望を受け、 昭和33年、岸信介内閣は専科大学構想を、 同年3月に開かれた第28国会に上程しました。 しかし当該国会は4月に内閣不信任案を可決して解散してしまいます。
その後も専科大学関係法案は3度にわたって国会上程されましたが、 結局廃案になってしまいました。 専科大学法案が反対された理由は主に2つありました。 1つは戦後の学制改革が目指した「単線型教育」の理念に反するという、 社会党や日本教職員組合の反対です。 もう一つは短期大学を危機に陥れるという、 短期大学関係者の反対でした。 専科大学構想には短期大学に関する条項も含まれていました。
しかし、その間も産業界では技術者不足がますます深刻化し、 産業界からの専科大学創設の要望はますます高まっていったのです。 こうした状況の中、昭和35年、 池田勇人内閣は「学校教育法の一部を改定する法律案」を第38国会に提出し、 そのなかで高等専門学校の構想を打ち出しました。 かつての専科大学構想は、 短期大学関係者の強い反対によって廃案になったことから、 高等専門学校構想では、短期大学関係者を刺激しない方向で検討されました。 この結果、高等専門学校構想には、短期大学問題を盛り込まず、 学科も工業系に限定する内容になりました。 この法案は昭和36年6月7日に成立し、同月17日に公布されました。 こうして昭和37年4月、高等専門学校制度が発足したのです。
参考文献