群馬高専の歴史

国立工業短大の誘致運動

昭和35年のわが国の輸出は総合国際収支が6億3600万ドルの黒字となり、 外貨準備高が年末には18億2500万ドルに達するなど、きわめて好調でした。 この年の12月には、池田内閣は閣議において、いわゆる所得倍増計画を正式に決定し、 設備投資ブームは全国的に高まっていきました。 群馬県当局も、国の工業重点政策に刺激されて、積極的に工業団地を造成し、 大企業の誘致をはかっていく方針を打ち出しましたが、 その一方で、県内の工業界を支える技術者の不足は次第に深刻化していったのです。

こうして、群馬県内に国立工業短期大学(のちの群馬高専;当時高専制度はまだありませんでした) を誘致する機運が急速に醸成されていきました 昭和36年1月25日、工業短大を誘致するための打ち合わせ会が群馬会館で開かれ、 荒井県総務部長、星野県会副議長、石井前橋市長、住谷高崎市長、西群馬大学長、 根岸町村会長が出席しました。 この会での確認事項は(1)早期に国立工業短大誘致促進期成同盟会を結成する。 (2)5月ごろまでに、具体的な計画をまとめ、 37年度予算に組まれるように折衝する。 (3)6万6千平方メートルの敷地、一億円前後の資金を地元負担として考慮する。 (4)機械・電気・土木・建築・色染・紡織などを設置学科の候補とする、 などでした。

神田知事は、昭和36年3月27日の定例記者会見の席上、 「国立工業短大問題は、4月に誘致運動の発起人会を開き、本格的に取り組む。 誘致場所は、前橋か高崎になると思う。」と語り、 その年の4月7日には国立工業短大誘致期成同盟設置世話人会が開かれました。 さらに5月24日には国立工業短大誘致促進期成同盟設置発起人会が群馬会館で開かれ、 工業短大誘致事業計画案・同資金計画を決めました。 また、文部省(現文部科学省)が国会に提出している、 いわゆる「高等専門学校法案」(高専法案)が成立した場合は、 工業短大誘致をただちに高専誘致に切り替えることが確認されました。

昭和36年6月15日、国立工業短期大学誘致期成同盟会の設立総会が、 群馬会館で開かれましたが、 その1週間前の6月7日に高専法案が参議院で可決されていて、 17日には公布されることが確実だったので、実質的にはこの時点で、 群馬県国立高等専門学校設置期成同盟会として発足したのです。 この会の出席者は神田知事をはじめ、 県・県議会・市長会・町村長会・商工会議所連合会などの関係諸団体の代表者、 124名でした。